研究紹介
2025.07.07
薬学部 衛生薬学分野
教授 櫻井敏博
[研究の背景と目的]
目に見えないウイルスに対して、私たちは恐怖や不安を抱きがちです。しかし、細菌に善玉と悪玉があるように、ウイルスにも生物に有益な存在があることをご存じでしょうか。たとえば、哺乳類が児を体内で育てる「胎生」の進化も、かつて哺乳類の祖先がウイルスに感染したことがきっかけでした。捕食恐竜が跋扈する中、ネズミのような小型哺乳類が「胎盤」という進化的優位性を獲得したことで、真獣類の繁栄が始まりました。胎生を可能とするのが胎盤ですが、その起源や多様な形態がどう進化したかは、いまだ多くの謎が存在します。ウシを含む真獣類では、胎盤の発生や構造が種ごとに違っており、その違いを生み出す分子レベルの仕組みを明らかにすることが本研究の目的です。特に、「内在性レトロウイルス(ERV)」と呼ばれるウイルス由来の遺伝子が胎盤進化の推進力になっているという仮説を検証しています 。
[主な成果と意義]
ウシゲノム中に約7,624個のERV由来遺伝子が存在していることを確認しました。その中でBERV-K1、BERV-K2、BERV-K3、Syncytin Rum1など284個が胎盤で発現していることがわかりました。これらのERVは、胎盤の細胞同士を融合させる“細胞融合機能”や、母体の免疫からの攻撃を回避する“免疫抑制機能”に関与し、ウシ独自の胎盤形態を作る上で重要な役割を果たしていると考えられます。レトロウイルス由来の遺伝子が、種ごとに異なる胎盤形態の形成に寄与するという証拠が示され、進化生物学や分子発生学に新たな視点を与える成果です。家畜の生殖や繁殖の仕組みを深く理解することで、畜産業における繁殖効率の改善や、安全性の高い人工繁殖技術の開発に貢献する可能性があります。
[今後の展開や展望]
BERV K1やSyncytin Rum1など種特異的なERVが具体的にどのように細胞融合や免疫抑制を実行しているかを、細胞レベルや分子レベルでさらに解析することが必要です。ウシ以外の反芻動物や、同じ哺乳類でも胎盤構造が異なる種で同様のERV機構が働いているかどうかの比較研究も今後の課題となります。ERVの機能を活用した人工的な胎盤模型の創製や、受精・着床成功率の向上、さらには家畜の繁殖効率の大幅な改善につながる技術の開発が期待されます。
[参考論文]
本研究の内容は、次の論文に掲載されています。
Progressive Exaptation of Endogenous Retroviruses in Placental Evolution in Cattle Biomolecules 13:1680 2023年